安全保障論

安全保障とは、ある集団が生存や独立などの価値ある何かを、何らかの脅威が及ばぬよう何かの手段を講じることで安全な状態を保障することである。

安全保障の歴史

古来から人類にとって生存は最重要課題であり、そのために歴史上の為政者たちは自国の安全を確保するために多大な労力を費やしてきた。
19世紀までの国際社会においては、対立する国家(同盟)間の力の均衡によって秩序が安定するという国際社会において、軍事力の造成と同盟の強化によってのみ自国の安全を保障するという個別的安全保障の考え方が支配的であった。故に当時の安全保障の研究領域は、国家の軍事政策や外交政策などにとどまっていた。
しかし、この個別的安全保障のもとでは、対立する国家間の軍拡競争が発生し、対立する国家間の緊張・不信感をいたずらに高めて戦争のリスクを高めることとなる。また小規模な紛争が世界戦争へと拡大する可能性も高めることとなる。第一次世界大戦は、個別的安全保障の危うさを示した最初の世界戦争である。
そこで、この第一次世界大戦後には、集団安全保障の考え方に基づく国際連盟が設立された。集団安全保障とは、全世界すべての国が体制に参加し、武力行使を原則禁止するとともに、これに違反した国に対しては構成国が協力して軍事力を含めて制裁する安全保障体制である。ただし集団安全保障の制度は、すべての国が参加することや、顕在的な敵国が体制内に存在しないことが条件となると考えられている。これによって国際緊張は緩和され、軍縮の可能性もありうる。
しかし国際連盟は権限や体制において欠陥があり、第二次世界大戦の開始を防ぎ得なかった。この歴史を踏まえ、設立された国際連合は集団安全保障のための体制をいっそう整備強化した。しかし国連は米ソの対立によって当初考えられていたように円滑に機能することができなかった。冷戦に突入してからも国連も機能不全が起こり、また米国においてはソ連との対立があったため、ソ連に対する軍事政策の研究を中心に行ったために、軍事理論が中心であった。

◯安全保障研究の第一次沈黙期
1960年代後半から1970年代後半にかけて安全保障研究は沈黙した。この沈黙期は、米ソ緊張緩和外交の影響や特に危機的な紛争が起きなかった事の理由が強い。なお、1970年代以降の安全保障研究活発化は、米ソ緊張緩和外交の有効性が示されなくなった事の影響が強い。

◯安全保障研究の第二次沈黙期
1991年12月、ソ連が崩壊したが、これを予見できた研究者が居なかった。また崩壊が起きた後もそれを説明できる研究者が居なかった。以後、国際政治学者、その中でも安全保障を研究する人々は沈黙した。ソ連崩壊によって「安全保障研究は死んだ」と言う意見すら出回った。冷戦後は国際的な相互依存関係の強まりや、国際経済の発展を背景に、安全保障は広く政治的、経済的利益を、軍事的手段のみならず外交、経済力、文化などをも用いて守ることを指すようになった。

PFP協定と再保証型安全保障制度
ソ連の脅威が無くなり、西ヨーロッパが所有する戦術核7400発の多くは不要とされ、大部分は廃棄となった。これにより NATOの性質の変化が求められたが、NATO解体はむしろ地域情勢を悪化させるとして存続されることになる。1994年1月、NATO拡大とそれに強硬に反対するロシアへの妥協案として PFP協定が提唱された。1997年9月、日米防衛協定の指針の改訂作業が行われ、日本の本土防衛だけでなく「周辺事態」にも対応する事が決定される。この安全保障体制を 再保証型(リアシュアランス型)安全保障制度と言う。

 

参照元Wikipedia安全保障論