安全保障論

安全保障とは、ある集団が生存や独立などの価値ある何かを、何らかの脅威が及ばぬよう何かの手段を講じることで安全な状態を保障することである。

日本の安全保障

日本の安全保障はアメリカ・イギリスとの間で勃発した太平洋戦争において敗北した後、米軍の占領を経て自由主義国の一員となり、平和主義を標榜する国家として自制的な安全保障体制をとってきた。
太平洋戦争での敗戦によって、日本国憲法を制定し、憲法の精神とされた平和主義の下で国権の発動としての武力の放棄をしてきた。冷戦期に突入すると世界は資本主義国により構成された西側諸国とソ連を盟主とした共産主義国との間で二極型の勢力図が形成されていった中で日本は米軍主導による戦後統治の中で資本主義陣営の一員として、米国の同盟国としての役割をはたしていった。当時の日本周辺の極東地域は共産勢力が強く、日本はソ連と中国といった二大共産主義国と隣接する国として資本主義陣営の盟主 アメリカにとって安全保障上の重要な拠点として認識され、日本国内各地に米軍基地を設けられていた。戦後復興の過程で日本では米軍指導の下による警察予備隊が編成され、以来、途中保安隊、自衛隊への改編を経て今日に至っている。
自衛力の保持についての是非は戦後憲法論争や国民世論の中で大きな問題となり、1960年には日米安全保障条約に基づき、日米同盟が締結された。国内世論は戦後の痛手の中で復興の途上にあり、国民感情としても安全保障を論ずることが忌避されるムードがあり、日米同盟締結時であった60年安保、また新日米安保条約締結時の70年安保闘争などを経て時として世論の大きな反対を受けつつも日本国としては専守防衛の理念の下で自衛隊を保有し続けてきた。戦後、長期にわたって政権を担ってきた自由民主党は早い時期から自衛力の保持及び集団的自衛権の保有等の問題をめぐって有事法制憲法改正を主張してきたが、戦後の平和ムードの中で社会党の反対を受け、きわめて抑制的な安全保障体制の中で米軍の軍事力による抑止力をもって極東地域における安全保障秩序を維持してきた。その後も最低限の自衛力の必要性については国民世論も大いに見解の分かれる中で社会の中で理解が得られていたといえようが、憲法改正などによる軍事力に対しての抑制的な見解が世論を覆っていたといえる。
しかし、冷戦崩壊の後、米ソ二極対立の陰に隠れてきた民族や宗教的価値観による地域間の対立が表面化し、中東のイラククウェートに侵攻し湾岸戦争、ポスト冷戦期のはじまりであった90年代初頭以降、日本は米国の同盟国としてはもちろん、経済大国として、または国際社会の一員として他国の紛争に対する関与をめぐって日本の国民世論はおおいに揺さぶりを受け、次第に日本の国際社会の一員としての役割として一定の責任があるという認識が広まりつつあり、PKOを中心とした平和的な貢献の道が模索される様になり、自衛隊による海外派遣の機会も次第に増えていった。
国内問題としても阪神淡路大震災地下鉄サリン事件など戦後、「神話」とまでされてきた日本の平和にも大きな危機がもたらされる様になり、世論からも安全保障の必要性がより認識される様になってきた。
今日、日本の安全保障においては専守防衛のあり方、日米同盟のあり方、自衛隊の運用の範囲などが大いに議論を生んでおり、憲法を改正し、日本として正当な自衛力の法的正当性を確保し日本らしい平和の形成と国際貢献の道を模索すべきだという改憲論と、日本国憲法美徳である不戦の誓いを維持するためにも現行憲法を堅持すべきという護憲論とに二分し、国民世論を二分する事態となっている。

 

参照元Wikipedia安全保障論

 

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安全保障の抱える問題

◯セキュリティ・パラドックス
セキュリティ・パラドックス(security paradox)、あるいは安全保障のジレンマ(security dilemma)とは安全保障政策立案上のジレンマを言う。
A国とB国が対立し、A国がB国に対する明確な安全保障を定め強化すると、B国もA国に対して安全保障を強化する。これらが悪循環し、平和の為の安全保障が逆説的にかえって軍拡や軍事的緊張を呼ぶ事になる。

◯脅威の創出
安全保障政策はしばしば国民世論だけでなく、近隣諸国、世界の世論も動かす為、特定の方向に意図を持った政治勢力によって安全保障が政争の道具に使われる事がしばしばある。
文明の衝突」の著者であるサミュエル・P・ハンティントンは、かつてソ連崩壊後に新たな脅威を探し、日米間の貿易摩擦を取り上げ、日本を経済的な敵と仮定し、経済戦争が生じ経済安全保障が必要だと提起した。これによって日米間の関係が崩壊する程度までは行かなかったが、極めて深刻な意見の対立が生じた。なお、経済安全保障ではスピンオフが今後期待出来ないとし、特に石原慎太郎著作の「NOと言える日本」はアメリカの安全保障研究者の多くを刺激した。石原慎太郎の指摘するアメリカ軍が日本の高度な軍事技術に依存している点に、安全保障上の問題があるとして高度な技術は全て国産にすべきとの考え方がアメリカに広まった。しかしそれを実現するには自由貿易を否定し、保護主義を強化しなければならない為、結果として経済的衰退を招くことが判明し、現在、経済安全保障の議論は低迷している。その後、ハンティントンは新たな脅威を探し、中国脅威論を提起し、その次は宗教対立、文明の衝突と言う脅威を提起した。ハンティントンの論が間違っていると言う事ではなく、安全保障研究を行っている人々は脅威を「探し出し」「煽る」傾向にあると言う事を差し引いて物事を見なければならない。

◯自由の抑圧
基本的人権言論の自由の抑圧、弾圧などにも治安や安全保障上の名分が使われる事がある。
大日本帝国1928年治安維持法の改正を行った。これにより日本共産党及び党員と、その支持者、また労働組合、農民(農業従事者)組合、プロレタリア文化運動など左翼参加者の摘発を行った。これは結果として、特高警察、独立性の小さい司法などを生み、基本的人権言論の自由の抑圧を加速させた。また治安維持法によって、未送検者含む逮捕者の数は数十万人を超えていたと言われている。政府発表では送検者7万5681人、起訴5162人、未送検者含む逮捕者の数は不明となっている。

◯脅威の誇張
存在しない危機やまだ危機と言える程の物ではない程度の物を、恣意的に「危機」「脅威」と過大に評価し世論誘導や国家の予算獲得しようとする試みが軍産複合体によって行われる場合がある。
911テロ後、2003年にアメリカ合衆国国土安全保障省を創設したが、国土安全保障省が自由に使える予算は配分される予算の内の4%に過ぎず、その4%は人件費や設備費で使い切ってしまう。残りの96%の予算は使途が決まっており、その使途は極めて政治的な意図によって左右されている。これは安全保障の名を借りて、国土安全保障省の予算を特定の政治勢力が自分の政治勢力の権益の為に予算を使う危険性が残る。また国土安全保障省国防総省の目的、業務内容が被っていると指摘されている。さらに国土安全保障省の国土安全保障会議と、国防総省国家安全保障会議の二つの会議間に連絡網が無い事も指摘されている。

 

参照元Wikipedia安全保障論

国際連合と安全保障

国際連合第二次世界大戦終結後の国際社会の秩序を安定させることを目的として、創設された集団安全保障体制である。(詳細は国際連合を参照)
集団安全保障体制は、構成国は武力行使を原則行わず、外交交渉によって問題を解決し、万一構成国が違反して武力行使を行えばその他の体制の構成国が協力して軍事力も含めた制裁措置を行うことによって、国際秩序を安定させる体制である。

国連軍
国連軍とは国連憲章に基づいて安全保障理事会の要請を以って武力制裁を実施する軍隊である。ただし、冷戦の米ソ対立によって国連の機能不全が起こったため、現在に至るまで存在しない組織である。

国連平和維持活動
国連平和維持活動と(PKO、peace-keeping operation)は国連の集団安全保障体制が米ソ対立という時代背景により冷戦期には機能不全になっていたために代替案として発達した紛争管理の活動である。代替案として発展したものであるため、国連憲章国連によって公的に定義されたことはない。(詳細は平和維持活動を参照)
基本的に平和維持活動は紛争当事者が停戦に合意し、かつ活動への合意を得ることが前提で、中立的な立場によって実行される。具体的には小規模の平和維持軍(PKF)や軍事監視団などを派遣し、選挙支援や治安維持、兵力引き離しなどの機能を果たす。武力制裁などの任務を担うことはなく、あくまで非強制的な範囲で平和状態を支援する。

◯ガリ構想
1992年6月17日、国際連合事務総長のガリ(ブトロス・ブトロス=ガーリ)は、ガリ構想の中で5種類の平和機能を提示した。

1.予防外交(注:予防外交の定義は50以上存在し、明確な定義は無い)
2.平和的手段による平和の創造(紛争を平和的な手段を用いて平和的に解決する)
3.強制的な措置を施し、平和を創造する(平和強制)
4.平和維持(停戦など)
5.紛争後の平和の建設、構築

以上の5種類の平和機能の内、国連が(正当性、不当性を判断して)関与するのは「強制的な措置を施し、平和を創造する(平和強制)」のみである。
これは国連憲章第六章及び国連憲章第七章の理念を合わせて提言した物であるが、数多くの国々や有識者から批判を浴びた。批判の多くは、平和強制によって国連が介入先の国家主権を無視する事に関して、より「積極的」になる事に比重が置かれた為である。
よってガリ構想が示した平和強制部隊(Peace enforcement units)は多くの人によって問題点を指摘され有効性が疑問視され、1994年にはソマリアにおける紛争などの解決に失敗したため、今後は行わないことをガリ自身が宣言した。

 

参照元Wikipedia安全保障論